本田宗一郎のすごかったエピソードまとめ

世界のホンダの本田宗一郎はやっぱりすごかったのです。 エピソードをまとめてみました。

本日 0pv

合計 1755pv


スポンサードリンク

指示をした翌朝にもう、「できたか?」

シビックやアコードなど、ホンダを代表する名車のデザインを手がけた、本田技研工業元常務の岩倉信弥氏。本田宗一郎に直接薫陶を受けた一人だ。
「オートバイを作り始めてからたった十数年で世界的なレースで優勝したかと思えば、今度は四輪事業参入直後にF1レースに参戦。本田さんの豪放磊落な生き方に憧れ、一九六四年に入社しました。すると、翌年、F1レースで優勝。不可能だと思えることも強く想えば叶うことを目の当たりにし、『私も車のデザインで世界一になる!』と奮い立ちました」
そうモチベーションを高めた岩倉氏だったが、本田氏の下での仕事は甘くなかった。
「本田さんは朝から晩まで研究所にいるのが好きだった人。私も、入社後、デザイナー、デザイン室の技術総括、研究所の専務、と研究所生活が長かったので、接する機会が多く、五十歳近くになっても『また君か!』と叱られていました」
本田氏に無理難題をつきつけられたことも多い。たとえば、デザイナーをしていた20代後半、「君は人殺しか!」と怒鳴られたことがあるという。
「『今すぐ鈴鹿工場に来い』と言われて飛んで行ったら、到着するや否や、叱られました。車のボディを作るとき、屋根と側面の鉄板を溶接でつなげたあとにハンダ(鉛と錫でできている)を盛って仕上げるのですが、そのハンダをヤスリで削って形を整える際に粉じんが出る。こんな作り方をしたら、工員が肺を悪くする、と言うのです。どの会社もやっている一般的な製法だったのですが、『すぐに直せ』とこっぴどく叱られました」
岩倉氏は夜遅くに鈴鹿から帰京したが、翌朝、研究所に出社すると、本田氏に朝一で、「おい、できたか?」と言われたという。
「本田さんのせっかちは知っていましたが、まさか翌朝に聞かれるとは思いませんでした」
この件に限らず、別件でも、翌日に「できたか?」と聞かれるのは茶飯事。さらに、「まだです」と返せば激怒したそうだ。
「とくに、学校で教わったような理屈を並べて、できない言い訳をしたときは最悪。『やりもせんに!(やりもしないで)』と烈火のごとく叱られました。結局、わかったのは、『できない』と言うにしても、死ぬ気で考えて、死ぬ気で試さないとダメだということ。毎朝『できたか?』と聞かれるのは本当に恐怖でした。定年退職して随分経った今でも、夢に見るほどですよ」

  出典 「一番叱られた人」が語る、本田宗一郎に人がついていく理由 | THE21オンライン

  出典 blogs.c.yimg.jp

終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり製塩機を作って海水から塩を作って米と交換したりして「遊んで」いたという。しかしこの時期に、苦労して買い出しをしていた妻の自転車に「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と思いつき、オートバイ研究が始まる[7]。
会社のハンコを藤沢武夫に預け経営も全て任せていた。本田は社印も実印も見たことがなく[8]、技術部門に集中し後に「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べており、藤沢も「本田がいなければここまで会社は大きくならなかった」と述べている[9]。互いに「西落合」(本田の自宅のある地)、「六本木」(藤沢の自宅のある地)とざっくばらんに呼び合っていた。また両者は「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっており身内を入社させなかった[10]。宗一郎は社名に個人の姓を付したことも後悔もしていた。
経営難に陥ったときに藤沢の助言でマン島TTレースやF1などの世界のビッグレースに参戦することを宣言し、従業員の士気高揚を図ることで経営を立て直した。出場宣言は藤沢によって書かれた[11]。
従業員からは親しみをこめて「オヤジ」と呼ばれていたが、一方で共に仕事をした従業員は共通して「オヤジさんは怖かった」とも述べている。作業中に中途半端な仕事をしたときなどは怒声と同時に容赦なく工具で頭を殴ったり、実験室で算出されたデータを滔滔と読み上げる社員に業を煮やし「実際に走行させたデータを持ってこい」と激怒して灰皿で殴るなどしていた。しかし、殴られたはずの者よりも、殴った宗一郎の方が泣いていたということもあったという。また怒る際、「よくお前が可愛いから怒るというが、俺はお前が本当に憎いから怒ってんだ」と言った。
南青山の本社ビルを新築する際「万が一地震が起こったときに割れたガラスが歩道を歩く人に降りかからないようにしなさい」と指示し全フロアにバルコニーがつけられたという。また藤沢も全く同じ指摘をしていたという。ちなみに、ビルの設計は、初代シビックのイメージに基づかれていたという。
皇居での勲一等瑞宝章親授式へ出席の際「技術者の正装とは真っ白なツナギ(作業着)だ」と言いその服装で出席しようとしたが、さすがに周囲に止められ最終的には社員が持っていた燕尾服で出席した。本人曰く燕尾服を持っていなかったためそのような発言をしたとのことである[12]。
無類の鮎の友釣り好きで年に1度は多数の客を自宅に招き鮎を放った小川で「鮎釣りパーティー」を行っていた。
大の別荘嫌いで「1年の内に1週間から10日しか住まない所に金をかけるなんて実にバカらしい」と言い生涯所有はしなかった。
差別を「諸悪の根源」とし、差別を徹底して嫌っていた。子供のころに、「家族の中でお風呂に入る順番が決まっている」ことに気付いてからだと言う。「人種や家柄や学歴などで人間を判断することを、私は今日まで、徹底してやらなかった。」[13]
邱永漢・渡部昇一『アジア共円圏の時代』によると、作家・経済評論家の邱永漢に、ホンダの海外の工場で一番うまくいっているところと一番具合が悪かったところを問われた本田は「良いほうを“台湾”、悪いほうを“韓国”」と答えたという。韓国について、『「どうしてですか?」と尋ねると、「向こうへ行って、オートバイを作るのを教えた。それで、一通りできるようになったら、『株を全部買いますから、帰ってくれ』と言われた。『どうしましょうか』と下の者が聞いてきたから、『そんなことを言われるところでやることはねえよ』と言って、金を返してもらった。その翌日に朴正煕が殺されたんだ」とおっしゃった』[14]。なお、本田がオートバイを作るのを教えたとされる台湾および韓国のメーカーは本書では明らかにされていない。ちなみに朴正煕が殺された1979年当時、ホンダが韓国で提携していたのは起亜技研であり、実際にホンダは1975年より続いた起亜技研との合弁事業を1979年に解消して資本撤退している[15]が、一方で技術供与は継続しており、起亜のバイクが「Honda」ブランドで販売されていた。また、1981年に大林工業が起亜グループ入りして大林自動車となった際には大林自動車にも技術供与を行い、大林のバイクが「Honda」ブランドで販売されている[16][17]。ホンダが起亜に『帰ってくれ』と言われたのが事実かどうか不明だが、少なくとも起亜自動車とは合弁解消以後も良好な関係を持っており、ホンダが起亜と提携した1975年以降で「Honda」ブランドが韓国から撤退したことはない。
また、『韓国側は、本田とのライセンス契約を一方的に解消し、エンジンからデザインまで全くのコピー品を“韓国ブランド”として販売を始め、宗一郎は周囲に「韓国とは絶対に関わるな」と言いつけた』と言うエピソードがネット上で流布しているが、ソースが不明である上に、本田の存命中に起亜および大林がホンダとの契約を解消した事実はなく、事実に反する。ホンダが起亜と提携した1975年以後は起亜のバイクが、また大林工業が起亜グループ入りした1981年以降は大林のバイクがHondaブランドで販売されており、ホンダコリアが設立された2001年以降も125cc以下の小型車に限って大林のバイクがHondaブランドで販売されている[18]。
社長を突如退任した理由は、マスキー法施行に対応する低公害エンジンを開発中の若手技術者が、本田が低公害エンジン開発について「ビッグ3と並ぶ千載一遇のチャンスだ」と発言したことに対し、「自分たちは会社のためにやっているのではない。社会のためにやっているのだ」と反発、その旨を当時専務だった河島喜好に訴え、河島からその旨を伝え聞いた本田が「いつの間にか私の発想は企業本位に立ったものになってしまっている」「自分の時代は終わった」と感じたためだという[19]。
また別の著書による社長退任のエピソードとして、エンジンを水冷か空冷かのどちらにするかという論争がホンダの中で巻き起こった頃、若い人は公害規制をクリアする意味で水冷だと主張したのに対し、本田は「砂漠の真ん中でエンストした時に水なんかあるか! 空冷だ」と主張したという。しかし様々なテストの結果、水冷の方が優れている事が分かり、そちらの案が採用される。そしてこれがホンダにとって大きな転機になり、その時に本田は「自分には技術が分からなくなったのかもしれない」と思い、社長を退いたという[20]。
社長退職後、全国のHondaディーラー店を御礼参りする。その際、整備担当が握手を求めたが、自分の手が油だらけなことに気がつき、洗いに行こうとする。しかし、本田は自らも技術者であったため、油まみれの手での握手に喜んで応じた。[21]
意外に思われるが、岩倉信弥によれば高級品が大好きで、時計などはブランド品の良いものを好んでいたという。しかし、これは、「一流であるものを知っておく」という独自論からであり、実際に「ベンツのクオリティ並の軽自動車を作る」といったことも提言し、アコードとメルセデス・ベンツの乗り心地を技術者にドライブさせ比較検証するなどでも実践していた。
逝去の2日前、さち夫人に「自分を背負って歩いてくれ」と言い、夫人は点滴の管をぶら下げた宗一郎を背負い病室の中を歩いた。そして「満足だった」という言葉を遺した。弔問時に遺族からそのエピソードを聞いた親友の井深大は「これが本田宗一郎の本質であったか」と述べ涙したという[22]。
その井深大とは、共に技術者出身でありシンパシーもあって、出会ってから自然と親友となった。そして、「互いの頼み事は断らない」などのルールを決め、互いに文化事業などの役員を推薦し合って務めたという。また、互いに手紙をやり取りしあうことも忘れず、ある時に井深が「ワープロで手紙を送って、彼を驚かそう」と手紙を打っていたが、寸前に宗一郎が帰らぬ人となり、その手紙を送ることは叶わなかった[22]。
三ない運動に関して、「高校生から教育の名の下にバイクを取り上げるのではなく、バイクに乗る際のルールや危険性を十分に教えていくのが学校教育ではないのか」と発言し、終始批判的なスタンスを取り続けた[23]。この考えは後の本田首脳陣にも引き継がれ、徳島県の生光学園中学校・高等学校と共同実施する高校生への安全教習や、元会長の池忠彦による運動を推進する自治体への批判発言という形で具現化されている。
「自動車会社の創業者の自分が葬式を出して、大渋滞を起こしちゃ申し訳ない」という遺言を遺し、社葬は行われなかった。

  出典 本田宗一郎 - Wikipedia

  出典 self-pr.net

本田宗一郎の法則

↓このまとめが気にいったら下のボタンをクリックお願いします。↓

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
※当ページで掲載しているまとめ記事については、あくまでも登録ユーザーの判断に基づいた内容です。リンク先での内容、商品購入やレビューにおける最終的な判断はご自身で行って頂きますようお願い申し上げます。なお、当サイトの内容を参考にして、購入したことによって不利益が出たとしても、当方では一切の責任は持てませんので御了承ください。

あなたへオススメ関連まとめ(こんな記事も読まれてます)



スポンサードリンク

話題まとめHOT

当サイトについて ご利用規約 はじめて記事作成する方 既に登録済の方(ログイン) プライバシーポリシー お問合せ


Copyright(c)まとめーる All Rights Reserved.